2008年12月19日
【心】不安はどこからくるのか?2
前回の続きです。
前回までの内容では、『不安』を抱きやすい人は、接している人に自分の弱々しい内面をのぞかれてしまうのでは?というように感じてしまうために不安になっている。簡単にいえばこういうことでした。
では、そういう人は誰に対してもそういうふうに思うのかといえば、そうではないようです。誰にでも一緒にいると『不安』を感じる人というのと『安心』できる人というのがいると思います。神経症的な人であってもやはり、『不安』を感じる人とそうでない人がいるのだそうです。
その違いは何なのか?といえば、心の底でその人のことを「好き」なのか「嫌い」なのかということです。
しかし、この一見簡単そうな「好き」とか「嫌い」という感情の区別は意外に難しいようです。そもそもそれができないから、心の底では嫌いだと思っている人とも、必要以上に或いは「好き」であるかのように接し、それによって『不安』を感じる。
では、前回と同じくこのことについての説明を書籍「自分に気づく心理学 著者:加藤諦三」より引用・紹介します。
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●心にもないお世辞を言ってしまう人には注意する
<前略>
好かれることで自分を守ろうとしている人は誰に対してもいい顔をしてしまう。自分が心の底でその人を好きか嫌いかなどは関係ない。(一部略)
誰かれの関係なく好かれようとはするが、他方心の底ではやはり好きな人と嫌いな人がいる。好かれるという心の必要性が一方にあるために、またその必要性が大きいために、心の底にある好き嫌いの感情は意識されることがすくない。
自分が付き合うのに適した人で、自分もまた好きな人がいる。そんな人に好かれようと努力することは自然である。しかし相手は利己的な人で、自分が心の底では嫌っているのに好かれようと努力していることもある。
後者の場合当然抑圧がおきる。その抑圧が不安を生み、焦りを感じさせる。もしある人といて、なぜか理由の分からない焦りを感じるとすれば、自分はこの人を心の底では嫌いなのではないかと反省してみることである。
<中略>
本当は嫌いなのに好きであると思っているということを、どうして見分けることができるであろうか。心の底では嫌っているのに好きだという振る舞いをしてしまう反動形成を見分けるには、心にもないお世辞に注意することである。
<中略>
心の底で好きでないからこそ、心にもないオーバーなお世辞が言えるのである。もし本当に好きなら人間はその人に対してそんなに平気でウソをつけるものではない。
<中略>
・・・安心感は自分の世界を持つところから生まれてくる。ところがこのような人といると自分の世界が失われるのである。
自分の内面は嫌悪と好意に分裂してしまっている。そして自分の内面の弱さや嫌悪を知られたくない、知られたくないのにのぞかれてしまうような気持ちになる。
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だから『不安』である、ということですね。
独りであり孤独な時に落ち着かず不安な気持ちになるのは自然なことだと思いますが、周りに誰かいる、一緒にいてくれる人がいるのに不安を感じるのだとすれば、上記の例のような何か矛盾した気持ちを抱えているのでは?ということを意識してみることも必要でしょう。
恋愛関係がうまくいってない人が訴える不安とか落ち着かないといったようなことは、まさにこのようなことが原因なのでしょう。
ともかく、自分という人間がどのような人間であるかということが見えないことには対処のしようもないし、それ故に不安であるということにもなります。自分を知ることはやはり大事なのだと思います。
ところで、私自身は自分をどうやって守っているのか?と考えてみましたが多分こうです。
「私を好きではない人間や私自身が好きだと思えない人間とは付き合わない、或いはそれなりの距離を置く。」
ということだと思います。こんな贅沢を言ってると殆ど独りでいることになってしまいますが(苦笑)。人間だもんってことで勘弁してくださいね(笑)。
--- [ 参考書籍 ] ---
自分に気づく心理学―幸せになれる人・なれない人 (PHP文庫)
加藤 諦三
投稿者 zunichi : 00:18 | コメント (0) | トラックバック
2008年12月16日
【心】不安はどこからくるのか?
『不安』という気持ちは大なり小なり誰にでもあるはずです。不安を抱えていること自体は何の問題も無いし、そのことに引け目を感じる必要もない。『不安』があるからこそ、人はそれを打ち消そうとして頑張ったりする。「大地震が来るかもしれない」という不安が「地震に対する備え」という行動に結びつくと思います。不安を全く感じないことほど『不安』なことはない(笑)。
しかしながら、どんな気持ちでも過剰になってしまえば問題です。『不安』も過剰になれば精神的な病気も含め様々な弊害がでてきてしまいます。不安が不安をよび、まさに負の連鎖になることでしょう。
そもそも『不安』とはどこからくるのか?それを今回は考えてみたいと思います。では、まず書籍「自分に気づく心理学 著者:加藤諦三」より、心の不安はどこからくるのか?について書かれている部分を引用・紹介します。
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●心の不安はどこからくるのか
安心感というのはどこからでてくるのであろうか。ひとつには他人に干渉されることのない自分の世界を持つところからうまれてくるのであろう。
<中略>
人は誰からものぞかれない自分だけの世界を持てた時、安心感を得る。その基礎的な安心感があってはじめて、人間の機能も十分に働くのではなかろうか。
そのような安心感があって仕事や勉強に対する集中力もでてくる。人は不安であったら、我を忘れて集中することはできない。集中と自閉とは違う。不安だから自閉的になる。自閉的になることで不安から自分を守ろうとしているのである。逆に人は不安でないから集中できる。
神経症的な人間が不安に悩まされているのは、自信のない自分の内面の世界を相手にのぞかれてしまうような気がするからである。そしてそのように不安だからこそ、自分の重要性を相手に示そうとする。
自分の重要性を相手に誇示することで、内面をのぞかれる不安から立ち直ろうとしているのである。べつの表現をすれば、自分の重要性を相手に誇示しようと努めるのは、相手に対する言い訳を必死でしているようなものである。
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上に紹介した例は、『不安』がうまれる一つのプロセスに過ぎません。その他の例については今後紹介したいと思います。
私なりの解釈で説明しますと、「素の自分」なり「自然な自分」なりを出せないような環境や状況にいることが『不安』をうむ一つの要素になるということだと思います。
何故、素の自分を出せないのか?と言えば、自分の内面の自信のない部分(言い換えれば弱点)を出すことで、他人からそういう部分を攻撃されるのでは?或いは嫌われてしまうのでは?という気持ちを抱く。つまりそういう『不安』を抱く訳です。だから自分をよく見せようとする。しかしそれは隠している内面がいつかばれるんではないんだろうか?という『不安』を常に抱くということでもある訳です。
まだまだ長くなりそうなので続きはまた明日以降にします。
--- [ 参考書籍 ] ---
自分に気づく心理学―幸せになれる人・なれない人 (PHP文庫)
加藤 諦三
投稿者 zunichi : 01:37 | コメント (0) | トラックバック
2008年10月24日
【心】なぜ、相手の不機嫌に怯えるのか?
大抵の人は接している相手を不機嫌にさせたくないと思っているし、その気持ちが強くて怯える程の人も結構いると思います。
私もそうです。基本的に相手を不機嫌にさせないように振舞うし、相手を不機嫌にさせるぐらいなら、自分がちょっと我慢すれば済むことならそうしたりします。
「こんなこと言ったら相手を不機嫌にさせるんじゃないだろうか?」というような不安や心配を抱いたりもします。
とはいえ、あまりにも理不尽なことを要求されたり、納得のいかないことを言われた時には「No!」と言うでしょう。若造のころはあまりできなかったですが、20代も後半になったぐらいからは、ある程度、自分の意見や態度をきちんと表現できるようになってきました。
しかし、世の中にはそれがなかなかできない人もいます。相手の好意を断れない、相手を不機嫌にすることを過剰なまでに恐れます。それは何故なんでしょうか?
その理由は、書籍『心の休ませ方(著者:加藤諦三)』ではこのように書いてありました。
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<中略>
例えば甘えの欲求を持った親は傷つきやすい。子供の言動に酷く怒りやすい。ちょっとした一言で機嫌が変わり、子供に怒りだす。
<中略>
甘えの欲求を満たされていない親が子供の為に何かするのは、自分の甘えの欲求を満たすためである。
例えば、「わー、おいしい料理」と言ってもらいたくて料理を作った。しかし、子供はそれほど喜ばなかった。そこで親はグチグチグチグチといつまでも子供を責めさいなむことになる。
<中略>
親が子供に甘えるのは、「親子の役割逆転」である。子供は、親の甘えの欲求を満たさなければ責められる。
<中略>
「親子の役割逆転」をして育った人は、人の好意を怖くて断れない。大人になってもその感情的記憶は残っている。
<中略>
そうした環境の中で育てば、自分が何か言うことで、相手が傷つくことを恐れる大人になる。・・・「加害恐怖」に陥る。
相手が不機嫌ということは、そういう人にとっては責められていると感じる。だからそういう人は、大人になってからも相手の不機嫌にいつも怯えている。
例えば、大人になっても人の好意に「ノー、サンキュー」と言えない。友人から夕食に招待されて料理を沢山作ってくれた。おいしく食べた。しかし、もうこれ以上食べられない。でも、「もうお腹がいっぱいだからけっこうです」と断れない。
なぜ断れないか。それは幼児期にそのような対応をすると、地獄の体験をしたからである。
つまり、「もう食べられない」と言った時に、母親がものすごく不機嫌になった記憶があるからである。
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上記の例はあくまでも一つの例なんだと思います。必ずしも親子の間だけで起こることではないと思いますが、一緒にいる時間の長さなども考えれば、親子で経験することが一番多いのだと思います。
確かに、このような環境下で育てば「人の不機嫌に怯える人間」になってしまうのも当たり前かもしれません。
しかし、人と人とのコミュニケーションができるということは食べたくないときには「食べたくない」と言えることです。たとえ相手が不機嫌になろうとも、少しだけ勇気を搾り出して自分の意思をはっきりと示すことが、本当のコミュニケーションに繋がると思います。
私の母親はどうだったかというと、とても怖かったです(笑)。躾などにとても厳しく、よく怒られていたので、子供の頃は怖くて怖くてしかたなかったぐらいです(笑)。でも、甘えられたといういような記憶は無いですね。
厳しく育ててもらったおかげで今の自分があるのだと、今では感謝しています。<(_ _)>
--- [ 参考書籍 ] ---
●心の休ませ方 「つらい時」をやり過ごす心理学●
著者:加藤諦三 出版:PHP文庫 
投稿者 zunichi : 01:57 | コメント (0) | トラックバック
2008年09月03日
【心】心の疲れとは?
いきなりですが、
●心の休ませ方 「つらい時」をやり過ごす心理学●
著者:加藤諦三 出版:PHP文庫
より、”まえがき”を引用します。
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「生きるのに疲れた」という言葉を時々聞く。
生きるのに疲れるということは、肉体的に疲れたということではないだろう。仕事をしすぎたとか、運動をしすぎたという意味ではないだろう。肉体的に疲れたのであれば、休めば回復する。寝れば回復する。
しかし、生きることに疲れた時は、寝ても疲れはとれないし、だいたい、寝ようとしても寝つかれないことが多い。生きることに疲れるということは、心身共に疲れるということであろうが、主に心が疲れたのであろう。
また生きることに疲れたということは、単に何かにショックを受けて疲れたということだけでもないだろう。悲しい事件が続いて心理的に疲れたという意味だけではない。親しい人を失って疲れたという意味だけでもないだろう。
もう生きるのがイヤになったという意味で、「生きることに疲れた」言う人が多いだろう。
生きることに疲れた人は、「生きるのがイヤ」と思いつつも、世の中に恨み辛み(うらみつらみ)は残っている。
「生きることに疲れた」と言う人は、小さい頃からの毎日のストレスの中で、すべてがイヤになったのだろう。そして心の中に憎しみが抑圧されている。
例えば人と話をするのでさえシンドイ。近くにいる人と会話をすることですらエネルギーを消耗する。会話を楽しむ人がいるが、生きることに疲れた人は会話するのも辛い。何気ない日常の会話も辛い仕事になる。
それは無理をして話しているからである。興味がないのに、興味のあるふりをして話をしなければならないからである。会話をしようとすると、自分が自分でなくなるからである。
生きることに疲れた人は、心の底に憎しみが抑圧されているから、人と心が触れ合えなくなっている。一人でいることは楽しくないが、皆でいるのも消耗する。人前で自分を偽るからである。そして何をするのも億劫である。
だから、周囲の人から何かを要求されることが辛い。簡単なことでも「こうしてくれ」と要求されることが辛い。
自分からしたいこともない。かといって何もしないでいるのも辛い。生きるのがイヤなのに対処の仕方が分からない。食べたいものがない。見たいものもない。映画にも演劇にも行きたくない。会いたい人もいない。でも家にいても退屈でやりきれない。
おそらく「生きることに疲れた」と言う人は、世の中に恨みを持ちつつも、生きるエネルギーを失ったということであろう。
長いことさまざまな感情を強引に心の底に押し殺しているので、生命力が低下しているのであろう。生命力の低下した人が、生きることに疲れた人ではないだろうか。
なぜ人は生きることに疲れるのだろうか。なぜ生命力が低下するのだろうか。生きることに疲れた人は、おそらく憎しみとか敵意とか嫌悪感など、さまざまなマイナスの感情が、心の底にうっ積しているのであろう。
生きることに疲れた人は、長いこと憎しみの感情を直接相手に吐き出すことはなかった。また、犯罪を犯すことで憎しみの感情を社会に吐き出すこともなかった。あるいは、反戦運動に参加して正義を盾に憎しみの感情を吐き出すこともなかった。
しかし根雪のように凍りついたマイナス感情を、本人はあまり気がついていない。
生きることに疲れたという感情は、嫌いな会社で働きながら会社を嫌いとも意識しないで、長く働いている時の心理状態であろう。あるいは、嫌いな家族と一緒にいながら家族を嫌いとも意識できないで、長年一緒に生活した後の心理状態であろう。
しかも本人はそこで真面目に生きてきた。「認めてもらいたい」と思って頑張って生きてきた。自分は無理をしていると気がつかないで夢中で生きてきた。「この人生にはきっと何かあるだろう」と一生懸命に生きてきたのに、気がついたら生きることに疲れていた。
その疲れはイソップ物語風に説明すれば次のような物語であろう。
孤独でお調子者のクマがいました。今日もサルから、
「あなたは穴を掘るのが上手ですね。一度名人芸を見せてください」
と言われました。
クマは本当は掘りたくないけれど、サルに認められたいので、喜んでいるふりをして穴を掘りました。掘り上げた土がみるみるうちに山のように積み上げられていきました。疲れたクマは、
(もういいだろう)
と思い、サルを見ました。ところがサルは、
「残念ですね。そんな程度ではモグラさんのほうがもっとすごいですよ」
と言いました。すると、
(あんな小さなモグラに負けてなるものか)
とクマは前よりも力を出して、深い深い穴を掘り出しました。毎日毎日自分に無理をして掘り続けて、
(これなら誉めてくれるだろう)
とクマは思いました。そこで、
「これでいいですか?」
と言ったのですが返事がありません。耳をすましてみると地上の音がまったく聞こえないのです。クマは急に不安になって穴からはい上がろうとしました。しかし、あまりにも深く穴を掘りすぎてしまったために、穴から出られなくなりました。
そして、クマはほんとうに出られなくなったと知った時初めて、
『サルの言葉に踊らされるこわさ』
を知ったのです。”認められたい”という欲求さえなければこんなことにならなかったのにと、クマは悔やみました。
そう思った時に、どっと疲れが出てクマは生きる気力を失いました。でも、助けてくれる人はもう誰もいませんでした。
生きることに疲れた人は真面目な人である。努力してきた人である。努力している時に、まさか自分がこのようになってしまうとは予想もしなかった。自分の努力は、いつか報われると思っていた。いつか皆から賞賛されると思った。
まさか自分の人生が、このような形で行き詰るとは予想していなかった。でもいま、生きることに疲れて、何もする気にならない。
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上記の文章は、とても簡単に簡潔に「心の疲れた人」、「生きることに疲れた人」、或いは「うつ病などの人」の説明をしてくれています。
自分がそうである人、周りにそのような人がいるという人は、このような心理状態が「生きることに疲れた」「心が疲れた」ということだという風に思ってください。勿論、人によっては、もっと複雑であったりするとは思いますので全てそうだとは言えませんが。
私自身があまり人と関わろうとしないのも、まさにこういうことが理由。一人でいることの寂しさよりも、皆でいることの煩わしさのが大きいと感じるので一人でいることを好むのです。皆でいると消耗し疲れてしまうことが多いのです。
「人付き合いが苦手」という人は、得意・不得意の問題ではなく、このように精神的な消耗や苦痛をどの程度感じるか、というのが本当の理由なんだと思います。
「心の疲れ」は、なかなか自覚しにくいものだと思います。上記のクマのように「生きることに疲れてしまう」まで気づかない人も多いと思います。
そうならない為にも、自分なりの心の休ませ方を考えてみるといいと思います。紹介した本もおススメです。
投稿者 zunichi : 17:28 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月01日
ソンディ・テスト
ソンディ・テスト
http://www2.osk.3web.ne.jp/~hani/szondi/
ちょっと変わった性格診断やってみた。
自分の結果をみるとすべてにおいて2面性があるということのようだ。当たってる感じだね。
診断結果
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性衝動 *0タイプ
個人を愛すべきか、全人類を愛すべきかに迷う愛情迷妄型。ジレンマに陥った性的欲求があり、すべて愛情的なものについて懐疑的である。攻撃性を抑圧しているか、または解放した後なので、積極性が欠けている状態。
発作衝動 -0タイプ
道徳的抑制をかいた激情爆発型。荒々しい感情、激怒、憎悪、憤怒などが爆発寸前であるから気をつけること。復讐心にもえたり、猜疑心にかられたりする。
自我衝動 -+タイプ
自己万能とこれに対する禁止が調和している自己抑制型。一方ではあらゆる事に万能でありたいと望が、これを制限しようとする働きもあるので、あまり問題にはならない。禁止傾向が強まると破壊的になりかねない。
接触衝動 0*タイプ
人やものに頼るべきか、別れるべきか迷う意志不定型。伝統的な古い観念や両親に従うべきか、反抗すべきか、意志の決定に迷う。執着も離反もできなくて、対象との接触に不幸な結果を招くことが多い。

