2010年02月04日
何故「日本歴史」を学ぶ必要があるのか? - 大川周明「歴史」への誘い -
そもそも「歴史」を学ぶことの意義や意味ということについて、誰かに教えてもらったり、自ら見出しているという人は少ないと思います。私自身、歴史を学ぶことはそもそも好きなことではありましたが、それ以上の意義や意味を見出していたわけではありません。
そこで今回は、日本文化チャンネル桜の高森明勅先生のコラムコーナー「高森アイズ」にて、平成二十年三月二十七日に放送された内容を動画と共に紹介し、「歴史」を学ぶということはどういうことなのか?ということを知ることで更に歴史への関心を深めたいと思います。
日本文化チャンネル桜
【高森アイズ】大川周明「歴史」への誘い
2008年3月27日放送分(動画1/2: 6分37秒、2/2:6分27秒)
1/2http://www.youtube.com/watch?v=SWkATsUJRU8
http://www.youtube.com/watch?v=58usbUeN_Uc
2/2http://www.youtube.com/watch?v=LncLMoTfvq8
http://www.youtube.com/watch?v=yr572zBfcf8
※2010年03月11日、動画リンクURL修正
◎大川周明(おおかわ しゅうめい)とは?
・法学博士、思想家
・明治十九年(1886)~昭和三十二年(1957)
・民間人として唯一、いわゆる「A級戦犯」に起訴されたが精神異常で免訴となった(正式な病名は脳梅毒)。
◎【論点1】何故「日本歴史」を学ぶ必要があるのか?
大川周明
「吾らは永遠より永遠にわたる日本的生命の一断面である」
↓
「意識すると否とにかかわらず、吾らは国民総体としてもはたまた個々の日本人としても、実に日本歴史の全体を宿してこの世に立っている」
↓
「今日の日本を知らずして、明日の日本を察し難きがごとく、過去の日本を知らずしては、今日の日本を知るべくもない」
↓
「吾らが現に生きつつある国家、ならびに吾ら自身を正しく把握するためには、必ず国史を学ばねばならぬ」
◎【論点2】国家の立て直しのためにも国史を学ぶ必要がある
大川周明
「いかなる世、いかなる国といはず、改造または革新の必要は、国民的生命の衰弱・頽廃から生まれる」
↓
「生命の衰弱・頽廃は、善なるものの力弱り、悪なるものの横行跋扈することによる」
↓
「国民的生命のうちに潜む善なるもの・高貴なるもの・堅実なるものを認識し、これを復興せしむることによって、現に横行しつつある邪悪を打倒しなければならぬ」
↓
(改造または革新とは)「自国の善を以って自国の悪を討つこと」
↓
「他国の善なるがごとく見ゆるものをかり来たりて、自国の悪に代ゆることであってはならぬ」
↓
「せいぜい成功しても木に竹をつぐにとどまり、決して樹木本来の生命を更新するのではなく、これを別個の竹たらしむるに終る」
↓
「建設の原理は、断じて他国に求むべきにあらず、じつに吾がうちに求めねばならぬ」
↓
「吾がうちに求むべき建設の原理は、ただ自国の歴史を学ぶことによってのみ、これを把握することができる。いま改造の必要に当面しつつある時代において、吾らはいよいよ国史研究の重要を痛感する所以である」
◎【論点3】国運と国史研究は盛衰をともにする
大川周明
「史学の消長と国家の盛衰とが、常に相伴ひ来れる」
↓
(日本書紀編纂の意義について)
「日本書紀が特に国号を冠したるは、ひとり国民をして建国の由来・精神を知らしむるのみならず、外国に対してまた国体の尊厳を宣揚するの目的を以って編修せられしものなるが故である」
↓
「当時の支那は唐朝の盛時であり、吾国が盛んにその文物制度を取入れたる先進国である。その先進国に対して、吾が日本の荘厳なる国体を明示するために日本書紀を編修したることは、日本精神の不羈独立を立証してあまりあるものである」
↓
「後醍醐天皇の建武中興は、たとい回天の偉業中道にして挫折したとは言え、まがふべくもなき日本精神の勃興なるがゆえに、北畠親房の『神皇正統記』が生まれた」
↓
「まことに神皇正統記は、前に遠く建国創業を望み、後に遥かに明治維新を呼ぶところの国史の中軸にして、この書一たび出でて大義名分の存するところ、煥乎として明らかになった」
↓
「徳川氏は皇室を宗教的に尊崇したが、全く政治的権力を奪ひ去った。それは言ふまでもなく日本の国体より言へば変則の政治である。しかるに徳川氏の史学奨励は、大いに国史の研究を促し、水戸藩の編修にかかる大日本史を初めとし、保建大記・中興鑑言のごとき、ないしは日本外史・日本政記のごとき、国民をして国体の本義を反省せしむる幾多の著書世に現れ、ついに明治維新の機運を促進するに至った」
↓
「以上の事実は、最も雄弁に史学の消長と国家の盛衰とが、常に相伴ひ来れることを物語る。そは歴史が国家を隆盛せしめるといふよりは、史学によって覚醒せられたる日本精神が興国の力となるのである。ただ正しき国史の研究のみが、吾らをして日本歴史の尊貴、日本民族の偉大、日本国体の尊厳を体得せしめ、よく一切の非常時に善処するを得せしめるであらう」
----------------------------------------------------
如何でしょうか?。私は最初にこの話を聞いた時には「なるほど」と思い、とても納得しました。中でも一番の印象に残った言葉は、
「今日の日本を知らずして、明日の日本を察し難きがごとく、過去の日本を知らずしては、今日の日本を知るべくもない」
でした。これはニーチェの言葉「汝自身を知れ」にも通じる考え方だと思います。
自国の歴史を正しく把握できているか否かということを判断するのは、主観の問題もあるので簡単にはできないかもしれませんが、一つ良い例題があります。
Q. 先の大戦、第二次世界大戦の日本の戦いを何と呼びますか?
答えは次のどちらかだと思います。
「太平洋戦争」 「大東亜戦争」
そして、現在の日本人は「太平洋戦争」と答える人が割合でいえば多いと思います。その日本は今、正に「先行き不安」であり、経済的にも政治的にも混乱した状態であると思います。国がこのような状態にあるのは、大川周明氏の考えに沿えば「必然」ということになります。
我が国の正しき歴史を取り戻しましょう。
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投稿者 zunichi : 00:47 | コメント (0) | トラックバック
2008年11月05日
【論文】田母神元航空幕僚長の論文『日本は侵略国家であったのか』(全文)
今なにかと話題の田母神氏(元航空幕僚長)が書かれた論文を全文掲載します。興味のある方はごゆっくりと読んでみてください。
※一部ふりがなを追記しています。
--------------------
●日本は侵略国家であったのか
田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将)
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋(ろこうきょう)事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇(リュウ・ショウキ)が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク) という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源(キンソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン) もいる。
李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑(フケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
■■■■■■■■■■■■
論文の中で引用されている書籍
マオ―誰も知らなかった毛沢東 上
土屋 京子 
マオ―誰も知らなかった毛沢東 下
土屋 京子 
黄文雄の大東亜戦争肯定論
黄 文雄
日本よ、「歴史力」を磨け―「現代史」の呪縛を解く
櫻井 よしこ 
日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)
渡部 昇一
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投稿者 zunichi : 23:20 | コメント (2) | トラックバック
2007年08月15日
いわゆる「A級戦犯」 第5回
お待たせしました、第5回をお送りします。まあ、誰も待ってないでしょうが。(笑)
今回も第4回に引き続き、インドのパール判事について紹介していきます。パール判事の「東京裁判」に対する判決・主張については前回に書いたとおりですが、その他にもパール判事の考えを知ることのできるエピソードなどを紹介します。
/----------
■■■パール判事の真意とは?■■■
東京裁判から4年後、パール氏は再来日し、広島を訪れて原爆慰霊碑に献花したそうです。しかし、その慰霊碑に書かれた碑文、
「安らかに眠ってください。
過ちは繰り返しませぬから。」
を見て、こう仰ったそうです。
この「過ちは繰り返しませぬ」という過ちは誰の行為を指しているのか。もちろん日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか。私は疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落としたものは日本人でないことは明瞭である。
落とした者が責任の所在を明らかにして「二度と再びこの過ちは犯さぬ」というのなら肯ける。
この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカはABCD包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。
アメリカこそ開戦の責任者である。
そして、パール氏はこのように思ったそうです。
東京裁判で何もかも悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。
----------/
現在の日本でも、太平洋戦争に関する報道などには「日本のことにしかふれない」ものが数多くあります。戦った相手国やそこにいたった背景というものが語られず、「日本人が日本人を苦しめた」「日本が悪かった」というものばかり。
あの時代、世界はどうだったのか?
その中にある日本はどういう状況だったのか?
そういった視点で考えてみませんか?
次回は、、テーマ未定です。(笑)
■いわゆる「A級戦犯」 第5回
□いわゆる「A級戦犯」 第4回
□いわゆる「A級戦犯」 第3回
□いわゆる「A級戦犯」 第2回
□いわゆる「A級戦犯」 第1回
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2007年04月08日
いわゆる「A級戦犯」 第4回
前回から年を越してしまいましたね。お待たせしました、4回目です。前回は「東京裁判」についての話でした。今回はその「東京裁判」で判事としての職務についていた、インド人のパール判事について解説していきます。
「東京裁判」には11人の判事がいましたが、その中で唯一の国際法学者がインド代表判事、ラダ・ビノード・パール博士でした。また、パール判事は自らの判決文の中で「全員無罪」を主張したのです。それはなぜでしょうか?
■■■「東京裁判」について■■■
パール判事は、自らの判決書で「東京裁判」のことをこう評しました。
「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは、敗戦者を即時殺戮した昔と、われわれの時代との間に横たわるところの、数世紀にわたる文明を抹殺するものである。」
日本でもそうですが、戦国時代やそれ以前の歴史の中では、戦で勝った者が負けた者を一方的に裁いていました。しかし、長い年月の流れの中で、そういった裁きは野蛮な行為であり法の下に人は平等に裁かれなければならないという考えが浸透し、そういう文明を築き上げてきたはずなのに、「東京裁判」はその文明を逆行したものになっている。というパール判事の訴えです。
■■■何故「全員無罪」なのか?■■■
パール判事は日本が好きだったからでしょうか?被告人に同情でもしたのでしょうか?パール氏の信念は次のようなものでした。
「私は正しき法を適用したに過ぎない。何の法的根拠も無く勝者が敗者を裁く蛮行を見逃すことはできない。この"裁判"の一番の被害者は"法の真理"である。」
第5回へつづく・・・
□いわゆる「A級戦犯」 第5回
■いわゆる「A級戦犯」 第4回
□いわゆる「A級戦犯」 第3回
□いわゆる「A級戦犯」 第2回
□いわゆる「A級戦犯」 第1回
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投稿者 zunichi : 22:56 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月29日
いわゆる「A級戦犯」 第3回
前回より大分間が空いてしまいましたが、やっと3回目をお送りします。今回は、いわゆる「A級戦犯」を裁いた「東京裁判」について簡単に解説していきたいと思います。
「東京裁判」の正式名称は「極東国際軍事裁判」といい、第2次世界大戦の戦勝国が敗戦国を裁くために行われたものです。
裁判長は、オーストラリア代表。
判事は、カナダ、中華民国、オランダ、フランス、ニュージーランド、ソ連、イギリス、アメリカ、インド、フィリピン。
すべて戦勝国とその植民地の国から選ばれており、敗戦国や中立国からは一人の裁判官も出てはいません。
これだけを見ても、正当な裁判が行われるとはとても思えない訳です。
さらに裁判が開廷されるには当然ながら法的な根拠がいります。現在の日本もそうですが、裁判に訴えたとしても、裁判を行うに足りうる十分な法的根拠がなければその訴えは棄却されます。
ではどのような根拠でこの裁判は行われたのでしょうか?
戦勝連合国側は、この裁判を「ポツダム宣言」第10項に基づくとしていました。その条文には捕虜の虐待などの通常の戦争犯罪の処罰しか求めておらず、国家指導者を裁判にかけるなどという文言はどこにも書いてません。
「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」などが定義されている法律なんて無いのにも拘らず、いわゆる「A級戦犯」の人たちはこういった罪で裁かれました。
また、捕虜に対する虐待とかちゃんと法律もあって定義されている犯罪に対しても裁かれたのは敗戦国のみであり戦勝国側は一切裁かれていません。
「事後法の禁止」・「法の平等適用」といった法治社会の鉄則は完全に無視されていた、でたらめ裁判。。それが「東京裁判」なのです。
単なる復習の儀式以外のなにものでもなかったわけです。このような裁判で裁かれた人たちを「戦犯」と呼べるのでしょうか?
いわゆるの所以はまさにここにあるわけです。裁判が裁判として成り立ってない以上、いわゆる「A級戦犯」でしかないのです。
次回は、この裁判で唯一「全員無罪」を主張したインドのパール判事について解説してみたいと思います。ではまた。。
□いわゆる「A級戦犯」 第5回
□いわゆる「A級戦犯」 第4回
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□いわゆる「A級戦犯」 第2回
□いわゆる「A級戦犯」 第1回
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